まだら色になった妻

まだら色になった妻

結婚1年目でうつ病になった、気分も肌色もまだらな妻のブログ。たまに学生夫のこと。

結婚直前に学生に戻った夫のこと

こんにちは。まだたんです。

私の夫を、このブログでは「ちょり」と呼んでいます。

ちょりとは大学のときに出会い、6年程の交際を経て結婚しました。その結婚直前に、ちょりはそれまで勤めていた会社を辞め、学生に戻っています。

そんな学生夫のちょりについて、本人の了承も得たので、少しお話ししたいと思います。

今回は、現状について。次からは少し細かいところも話せる範囲でお話ししようかな。

なお、ブログを始めた当初「脱サラした」としていましたが、独立ではないため訂正しております。

まだら妻の夫

夫のちょりは、現在大学生です。年齢は私の一つ上で、学生として勉強をするかたわら、非正規で塾講師をして家にお金を入れてくれています。

また、以前働いていた職場の影響で、幼少期に治したはずのアトピーが再発。数年かけて徐々に落ち着いてはきたものの、現在も『汗疱(かんぽう)』などの肌荒れに悩まされ、試行錯誤の毎日です。

そして、『尋常性白斑』や『うつ病』を患う、まだらな私のことも支えてくれています。

たまーに「?」なことも言いますが、それはご愛嬌って感じの、本当にできた人です。


会社を辞めた理由

ちょりが会社を辞めたのは、思っていた以上に職場環境や労働条件が悪かったことが一番の理由です。

ちょりはそれでも長いことがんばって働いていましたが、私の方は辞めてほしいとずっと思っていました。その会社に対する不満も募っていましたし、申し訳ないけれど、その会社で働く彼を支え続ける自信も持てませんでした。

なので、辞めるかどうかの話し合いでも、ちょり本人は躊躇していましたが、私の方が積極的に辞める方を推していました。

そのため、「どうして結婚直前に辞めるの!?」という喧嘩もありません。(ドタバタハプニングをご所望の方、ごめんなさい。)

もちろん、どういった環境・条件でもしっかり勤め上げる方はいますし、それを支えるご家族もいるとは思います。でも、それまでに起こったことやこれから起こったであろうことを考えれば、私は辞めてくれて良かったと心から思っています。

また、ちょり自身も辞めたことへの後悔はないそう。


学生に戻ることを選んだ理由

なぜ転職ではなく学生に戻ったのかというと、ちょりのやりたいことが「先生」だったから。

つまり、教員職員免許状を取得するために、教職課程を履修する必要がありました。

きっと、これを読んだ方は「そもそもどうして教育系に進まなかったのか」「結婚直前ならやりたいことより転職を選ぶべきじゃないか」と思うかもしれません。経緯をお話しすれば幾分すっきりすると思うのですが、長くなってしまうので、また追い追い......。


ということで、「先生」になるべく今一度大学生となった夫のちょり。

4年制大学を1度卒業しており、教職に必要な単位だけを履修すれば良いので、在学予定は2年程。すでに1年以上在学していて、今年教員採用試験を受ける予定です。

来年の4月には、念願の「先生」としての道を歩み出してくれればと思っています。


落ち着かない今

今、「先生」を目指している方、皆さんがソワソワしている頃だと思います。

予定通りであれば、あと1か月ほどで公立の試験が始まりますから。

ただ、ここ数か月はそれこそ新型コロナウイルスのことで、もうバッタバタ。

学習塾の休業要請でちょりの塾講師の仕事も休みになり、補償は出るも収入は減。大学も休みになり、時間がある分試験勉強をしようにも、今年の教員採用試験がそもそも行われるのかという不安も。

あと1年という年に、こんなことになるとは......。

つい先日緊急事態宣言が解除されましたが、しばらくは落ち着かない日々です。




本当に、話題には事欠かない我が家です。だからこそブログを始めたわけですが。

今後は、ここではお話ししきれなかったところをお話ししていこうと思います。お読みいただける方は、こんな夫婦もいるのねって感じにお読みください。


人生2度目のがん検査を受けることに

こんにちは。定期的に更新できない人間、まだたんです。

白斑ができるまで」を終えて、明るい話題にしばらくはしたいなーとか、夫のことを話そうかなーとか色々考えていたのですが、モヤモヤすることがあると何だか筆が乗らないというか、何というか……。

そう、モヤモヤすることがあったんです。

そもそも時事的なこともなかなか良い話って今はないですし、知るとそれだけでモヤモヤします。だからニュースなどは極力見ないようにしているのですが、そんな中イネ科のカモガヤアレルギーが今年は本当にひどくて、朝方4時にはのどの強烈なかゆみで起きてしまい、その後眠れず。ただでさえ、睡眠障害で寝付くのに時間が掛かるのに、数時間で起こされるのは本当に辛いです。

さらに、このタイミングでがん検査を受ける予定までできて。

おいおーい。ってなってます。

がん検査はタイトルにある通り、人生2度目。年齢的には多い気がします。20代、30代でもがんになりうることはもちろん知っていますが、そういった疑いが出ること自体、私の周りではあんまり聞きません。

できれば、そんな疑いが出るようなことが一切ない人生が嬉しいんだけどな。

人生1度目は乳がんでした。2度目の今回は、舌がん(口腔がん)です。

前回も今回も念のためって感じなので、そこまで深刻な状況ではないのですが、受けると決まるとやっぱりドキドキしちゃいます。その検査で人生が決まるような、もしかしたら次の瞬間には絶望の淵に立たされるんじゃないか、そんな気持ちになります。

乳がんは、新卒で入社した直後、婦人科検診で疑いが出ました。

結果からお伝えすると、『線維腺腫』という、悪性ではないものでした。

以前からしこりがあるような気はしていたのですが、大学時代の数年で一気に大きくなり、自分でも確かにあるなってくらいまで成長していました。

そこまで気にしていなかったから放置していたのですが、せっかくの検診だしということで自分から伝えると、エコーと触診で「確かにありますね」。たまたまその検診の担当医が大学病院に所属されている方で、その大学病院を紹介していただきました。そして、あれよあれよという間に生検することになりました。

生検というのは、疑わしい細胞を取ってその細胞を検査することです。

私の場合は、針で一部を取る針生検でした。

ここで話すとただただ恐怖心を与えてしまうかもしれないので、また今度にしますが、受けるまでは能天気だった私も、受けた後は2度と受けるまいと思った検査でした。

その検査では、幸いがんの可能性は否定されたわけですが、今回またもや別のがんの疑いが。

この半年間くらい、舌の裏にできた白いかさぶた?気になってはいたんです。

昨年、虫歯の治療を受けていたのですが、どうにも先生の対応が気になり通院をやめた後、程なくして舌の側面をよく噛むようになりました。その病院ではかぶせ物をしていただいたのですが、自分の歯よりも大きく、物も挟まるし、気になって舌でいじるようになり、多分変な癖がついてしまったんだと思います。

何度か噛んでる内に、治りが悪くなり、また辛いものがしみるように。そして、白いかさぶたが。

ネット検索で調べると、前がん病変の可能性があるということだったので、早めに歯医者さん行かないとと思ってはいたのですが、そのうち新型コロナウイルスが流行りだし…。

歯医者さんって唾液も飛ぶし、きっと衛生士さんとか先生とか嫌だよなーと思ってしまって、なかなか行けずにいました。

ただ、治らないし、やっぱり心配だし、新型コロナウイルスがいつ落ち着くかもわからないしで、とりあえず、受診してみようと決意。先月末のことでした。

そして、今月初めに歯医者さんへ。

歯医者さん自体が苦手なので、とっても丁寧に対応してくださる先生でほっとしつつ、やっぱり前がん病変の『白板症(はくばんしょう)』だろうとのことでした。

必ずしもがんになるわけではなく、『白板症』のうち、がん化するのは数%らしいです。年齢的にも症状的にも、現時点でがんである可能性は低く経過観察でも構わないそうなのですが、「念のため検査もできますよ」と言われ、来月検査することにしました。

今回は生検ではなく、特殊な光を当てる検査ということで、体の負担はほとんどなさそうです。

でも、うーん、やっぱり不安だー。

普段は全然気にしないのですが、ふとした瞬間に不安が襲ってきます。

そして、このタイミングでと思われてしまうかもですが、そろそろ子どももと考えていた矢先だったので、何だか出鼻をくじかれたような気持ちです。仕事で延期して、うつで延期して、感染症で延期して、今度はがん疑いで。いつになったら子どもに会えるのやら。

夫とも話して、「これからの命より、今ある命が優先でしょ」と言われ、やはり万一のことを考えると検査結果は待つべきなのだと、ちゃんと頭ではわかっています。モヤモヤするけど。

いやー、人生一筋縄ではいかないものです。本当。

でも、『うつ病』の方でお世話になっている先生には、「それでも、まだ精神的には安定している方ですよ」と褒めていただきました。「そういった検査の前はもっと不安になってもおかしくない」ということで、「念のための検査だから」と励ましの言葉まで。

とりあえず、がんの可能性を潰すための検査だと自分に言い聞かせて、前向きに受けたいものです。今回の検査で陰性でも、その後がん化することを否定できないのですが、それは今どんなに健康体だとしても同じなので、深く考えないように。

「『白斑症』の次は『白板症』かよー」とさむーいギャグでも考えながら、能天気に検査日まで過ごしたいと思います。


白斑持ちが使うカバー重視のベースメイク商品

こんにちは。まだたんです。
今回は、白斑持ちならでは?のお話です。

幸か不幸か、白斑ができたことをきっかけに、お化粧や化粧品に興味を持ちました。大学生時代ファンデーションすら塗らなかった人間が、今では始発でクリスマスコフレの列に並ぶほどです。(昨年はシュウウエムラのピカシュウたちをゲット!)

スッピンの顔は白斑やシミのこともあってどうにも好きになれませんが、メイク後の顔は自分で言うのも何ですが、まあまあ好きです。えへ。

ということで、『尋常性白斑』を持つ私がベースメイクでよく使っている化粧品をちらっとご紹介しようかと思います。あとは、今まで白斑を隠すために使っていたものも。

誰かにとって参考になるものかはわかりませんので、自分の記録用って感じです。

※普通の肌の方は厚塗りに感じると思いますし、肌にコンプレックスを持つ方用の商品もあるので、そこはご自身でご判断ください。


今使っている化粧品たち

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  1. DECENCIA サエル ホワイト CCクリーム コンセントレート
    「SPF50+」「PA++++」で紫外線対策ばっちりです。乾燥しないため年中使えます。白斑のない左側の顔は本来これを適量塗るだけでそこそこ綺麗に見えるのですが、常時半顔メイクにするわけにもいかないので、化粧下地として全顔に薄く使っています。なので、安くはないですが、私の場合はコスパ◎。

  2. ベネフィーク ファンデーションジーニアス(リキッド) オークル10
    こちらは「SPF30」「PA++」。こちらが資生堂商品なのは、白斑を隠すためのコンシーラーとの相性から。資生堂ファンデーションの中ではカバー力が高く、また私に合うカラーだとBAさんがオススメしてくださいました。

  3. パーフェクトカバー ファンデーション MV オークル00
    白斑やシミを隠すために使用している部分用ファンデーションです。全顔に使用もOKですが、伸ばし方が足りないとすごいことになるので、今はコンシーラーとして使用しています。かの有名な「スポッツカバー」の上位互換的な商品です。「クレドポーボーテ」のパフでしっかり伸ばして重ね塗り、それでも出てくるときは指でぼかしています。


この3つでムラを隠し、まだら色の肌を普通の肌に見せたところで、パウダーをはたいています。パウダーも私の肌色にぴったりでとても気に入っていますが、限定商品のため載せるのはやめておきます。

以前使用していた化粧品や白斑を隠すための商品

  1. グラファ ダドレス(透明タイプ)/ダドレスC(色付きタイプ)
    肌を着色し、あたかも色素があるかのように見せてくれます。ファンデーションでは隠しきれなくなった白斑を隠すために、私が使用し始めた最初の商品です。私の場合は色付きタイプは寝るときに、透明タイプは退色がどうしても気になり日中使用したいときに使っていました。セルフタンニングは色の調整が鬼難しいですが、旅行で人前でスッピンにならないといけないときなどはとっても役に立つ、心の安定剤です。

    現在使わない理由:
    一番はスッピンのときの白斑がそこまで気にならなくなったこと。周りの肌も白くなり、また白斑の肌を受け入れられてきたので、家族の前なら隠す必要を感じていません。あと、「ダドレス」を使用するときは化粧水などが使えないのですが、乾燥肌のため冬場はとても辛いというのもありました。

    「ダドレス」など肌を着色する商品は、「セルフタンニング」と調べるとたくさん出てきます。ただ、それが白斑に使えるのか、色が合うのかは人それぞれですので、ご確認ください。

  2. スポッツカバー ファウンデイション
    言わずと知れたプチプラコンシーラーの中では大人気の商品で、白斑やシミを隠すのにもとっても良い商品です。価格は「パーフェクトカバー」の3分の1。私に合う色ではありませんでしたが、若いうちはそれでも安いからと使っていました。補正色なども売っているので、それを合わせれば使い続けることもできたかも。

    現在使わない理由:
    カラーが合わないことがどうしても気になったためです。そして、「パーフェクトカバー」の品質が良さそうなのと、何よりもカラーがばっちり合っていました。時間経過で落ちてくるのは仕方ないですが、「パーフェクトカバー」の方が崩れ方も綺麗で、くすみも少なく気に入っています。

    他のメーカーさんでも白斑などに使えるファンデーションがありますが、こればかりは相性です。他の商品も試したことはあるのですが、スウォッチまでしていただいて案内されたカラーが自分から見ると合わないとかで、使わなかったこともあります。




それぞれの隠し方がありますので、どれが正解ということもありません。私の生活においては、今のところこうしているというだけなので、今後はまた変わるかも?

タンニングも旅行に行くならしようかなーと思いますし……

また、現在Twitterで、白斑専用のサロンオープンに向けてクラウドファンディングをされている方がいて、自分で隠してきた私にはそのような方法もあるのかと新鮮でした。

URL:コンプレックスを乗り越えて 白斑専用サロンをオープン!(岸本 美和子 2020/04/17 公開) - クラウドファンディング READYFOR (レディーフォー)*1

どうして私はこんな隠して生きなきゃいけないんだ、なんて思っていた時期もあったのですが、そこまでトラブルのない方でもお肌のムラは隠しますし、ムラのない肌って若々しくて綺麗なんですよね。


最近は外出する機会も少なくお化粧もそこまで気合を入れてしていないので、さみしい限りですが、また外出できるようになったら楽しくお化粧したいものです。


*1:新型コロナウイルスの影響で家のお財布事情が苦しく、支援には参加できておりません。そのため、支援を推奨するためではなく、こういった方法もあるということで、載せております。白斑患者、またそういった病を持つ家族がいる方には一読の価値はあるかと思います。

【白斑ができるまで】について

前回までで、『白斑ができるまで』のお話は最後です。
今回は当時を振り返っての、私の今の気持ちとかを……


その後

白斑ができるまで6』で実家を出て以降、私は実家に戻ることはありませんでした。

家を出ることは、最後まで悩みました。

私は、大学入学時にも家から出る機会を得ながら、それを選びませんでした。すでに家庭内に不安を抱えていた私は、万が一家族に何かあったときは家にいたいと思っていました。そんな不安が見事的中するとは思いませんでしたが。

就職でも、家族への不安はずっとありました。

両親は、私の大学在学中にみるみる老け衰えていき、家を出るのは、このふたりを見捨てることと同義でした。

ですが、自分の人生を守るにはこれが最良だったと、今は言い切ることができます。

就職以降に起こった出来事も踏まえると、あのとき家を出ていなければ、ちょりとも長くは続かなかったでしょうし、白斑の拡がりが止まることもなかったかなと思います。


白斑とストレス(私の場合)

そういえば、『白斑ができるまで』と題したわりに、白斑のことよりも家庭内の出来事ばかりになってしまいました。私自身はわかっていてそうしたわけですが、白斑のことを読みたかった人には不満だったかもしれません。

私の白斑と家庭のストレスは切っても切れない関係です。というか、私の白斑は家庭内の出来事がなければできることはなかったと、今でも思っています。

そして、家庭の問題は、私の家だけの問題でもないのです。

大学在学中くらいから、幼い頃は知らなかった、親の過去を聞くことが増えました。父と母がそれぞれ育った家庭環境を聞けば、ふたりがこう育ったことを頷ける部分がいくつもあるのです。だから、誰かだけを一方的に悪者にすることもできませんし、その人だけを排してストレスがなくなるなんてこともありません。(『白斑ができるまで』の中で悪いことしか言ってない祖母も苦労している人です。)

自分は愛着障害なのかもなんて、自分の育ちを悲劇的に思っているのは事実ですが、それは弟も、そして父も母も一緒なんじゃないかと、最近はよく思います。

ストレスをなくす、なんて簡単に表現されますが、その根っこはあまりに深すぎて、どう掘り返したってなくせるもんなんかじゃありません。実際に起こった出来事を、自分の前から都合よく消すことなんてできません。

ぶっちゃけ、ストレスやストレスの原因があることは自明の理と認識した上で、表面上どう取り繕うかって言われた方がわかりやすいし、私はしっくりきます。


母のこと

母からは今でもたまに耳を疑うような言葉を掛けられますが、それでも見た目の上では良好な関係を維持しています。

それは、母へのどうしようもない愛情もあるけれど、母の努力も私は知っているから。

母は、今まで私が聞いてきた中でも特に特殊な環境を生きてきた人で、もっと捻じれていてもおかしくない人です。でも、ある程度の常識を持ち、祖父母や親戚に受けたこと全てを私や弟にしていないのは、母自身の努力だと思っています。

私が母の生き写しにならないよう抗って生きているのと同様に、母も抗って生きてきたんだと思います。

だから、私は母の可能性を信じないわけにはいかないんだろうな。


逃げること、割り切ること

私は「逃げる」ことを選び、それに後悔はありませんが、読んでいただいた通り、逃げきれているわけでもありません。逃げきることもできるのかもしれないけど、そのためにはもっと努力をしないと私は逃げきることを選べないんです。

努力して、その努力の先に割り切るという結論が出てきますが、そこまで行きついてないという感じでしょうか。

私の場合、家から出て実質的な距離を取るまでは割り切れていますが、全てを割り切るまでには至っていません。また、自分の幸福感としても、まだ努力し、模索することの方を選んでいるんだと思います。

白斑との付き合いも同じです。

隠さないほど割り切ることはできないけれど、鏡を見て号泣することも今はありません。治療も、昔の母の対応やあの医師の言葉を思い出すくらいなら治療をしないと割り切る方が、私には楽です。そして、治療を割り切ることで得られるお金を、美白や白髪染め、もしくは全く関係ない旅行とかに使うことの方が私には幸せなのです。

だから、きっとした方が良いだろうと自分でも思っている治療から、逃げています。

「逃げる」という選択肢を許容しつつ、それでもどこまで努力し、どこで割り切るのか。

面倒だけど、『うつ病』にもなった私はそのさじ加減が多分下手なんです。なので、自分で考え調整しないと、生きていけないんだと思います。




嫌なことも多かった日々を振り返るのは、やっぱり堪えますね。どうしても振り返っているうちに、当時の気持ちに引っ張られます。

一つ一つが長いなーと自覚もあったのですが、口数が多い性分なのと、できるだけ早く終わらせたいなーとも思っていました。

とりあえず、終わってほっとしてます。

しばらくは暗いお話はやめて、もう少し明るいことがお話しできればいいな。


【白斑ができるまで6】私はすれ違っていく

白斑ができた頃のお話しの6つ目です。
前回のお話は、下記からどうぞ。

madara-tsuma.hatenablog.com

  



ようやくの白斑治療。私は以前から調べていた白斑治療に詳しい専門の先生がいる病院に行くことを決めていました。

地元の皮膚科の先生から処方されたお薬は、私が手に入れた情報によれば効果はあまり見込めないとされるものでした。なので、できれば効果が高いとされる治療を受けたい、治らずとも拡がりだけでも抑えたい、そう思って選んだ病院でした。

ただ、その病院の初診で言われた言葉は、私にとっては耳を疑うような言葉でした。

「どうしてここまで放っておいたの。」
「子どもがなったら、お母さんたち慌てて連れてくるんだよ。」

きっと、長年そのままにしたものを治すことの難しさからきた言葉なんだと思います。言われたそのときは、申し訳ないと思いました。

でも、患者本人に言うことでしょうか。

私だって、自然には消えないものなのだと知ったときから、すぐにでも治療を受けたかったです。何年も時が経つほどに治りにくくなることも、もちろん知っていました。日々、「白いシミ」「白斑」「治る」なんてキーワードを入れながら、検索し続けていたから。

でも、家庭内のこと、金銭的なことで、どうしても後回しにするしかありませんでした。

医師はそんなこと知る由もないのでしょうが、みんながみんな受けたいときに受けたい治療を受けられるわけじゃない。

そして、どうしても受け入れられなかったのが、「子どもがなったら、お母さんたち慌てて連れてくるんだよ」と言う言葉。

じゃぁ、私の母はなぜそうじゃないの。

小さい子供ではないから、全てを母に委ねるつもりはないけれど、「どうしたの?」も「大丈夫?」もない。どうしても気になるといくら話しても、「そんなに気にならないよ」や「元々色白で良かったじゃない」、さらには「全身白くなっちゃえばいいのにね」なんてことを冗談で言ってきます。

協力までしてくれなくてもいい。同情だけでも得られたら、私の気持ちは違ったのかもしれません。

ばかばかしく思えました。自分の必死な思いも、治療費も。

何回か通院しましたが、どうしてもこの医師の言葉が頭から離れませんでした。

そのうち就職活動も忙しくなり、再度金銭的余裕がなくなった私は、次第にその病院から足が遠のいていきました。

これ以降、私は白斑の治療は受けていません。頑なすぎるかもしれないけれど、もっと長く放置してしまったものを、また何て言われてしまうかわかりませんから。

私にとっては、そのときが自分のできうる早めの治療だったのに。

当時、まだ右側の人中から耳元までだった白斑は、これ以降も拡がり続けました。

通院をやめた後、私は開き直って、化粧で何とかごまかしながら過ごし、さらには白斑であることを武器にしてまで就職活動をしていました。(自己PRなどで挫折に打ち勝ったんだよ的に。)

この就活を乗り越えたら自由になれる、という思いに突き動かされていました。

母は、私が一般企業の総合職でキャリアを積むことに否定的でした。この家で母の話に耳を傾ける人間は私くらいでしたし、地方公務員にでもなって実家から通ってほしいと思っていたようでした。ただ、私の密かな願いとは別に、当時奨学金で大学に通っている事実があったので、返済にはバリキャリしかないと、今思えば大変無茶な説得をしていました。

幸い、そこそこ有名な
第一志望の企業の最終選考にまで残っていました。だからなのか、母は私の下手な説得でも機嫌を損なうことはなく、協力を得られていました。

その最終選考の前日、気合を入れるため、髪の毛を切りに美容室に行くと、予想外の出来事が起こりました。一つ縛りじゃ画一的でつまらないしハーフアップにしていこうかなー、なんて考えながら、綺麗にまとまるようにしてもらう予定でした。

そのとき、カットの上手なおじさんの美容師さんが一言。

「ここ、気付いてる?」

私が何のことかと聞くと、後頭部上半分の髪をかき上げた状態を合わせ鏡で見せてくれました。

驚いて、すぐには反応できませんでした。

今まで上側の髪で隠れていて誰からも指摘されなかったし、自分でも気付かなかったけれど、下半分にまだらに白髪が生えています。数本どころの話じゃありません。わざとそこだけメッシュ入れたのかってくらいに白いところは真っ白。

ついにここまで来てしまったのか、とショックでした。

気合を入れるつもりが、心はズタズタでした。

結局、この最終選考で私は採用されることはありませんでした。

白斑や、前日の美容室での出来事が理由だったとは思いません。白斑を武器にして受けたその会社の社員の方はとっても好印象で、「その考え方はとっても良いからがんばってね」と応援してくれたし、当日も私なりに努力したつもりなので、私自身の力不足です。そして、縁がなかっただけ。

その後、少し方向性を変えて再度就職活動に励み、別の会社に採用されました。

しかも、全国転勤ありの総合職で、初任地は実家からはとても遠く、飛行機が必要な場所。初任地を聞いたときは想像以上に遠方でびっくりもしましたが、念願が叶った瞬間でした。

やっと実家から逃げられる、その気持ちが大きかったです。

初任地に赴くために実家を出る日、物心ついてから初めての母の抱擁を受けました。

ずっとこうしてほしかった。

そう思いながら、零れ落ちそうな涙をぐっと堪え、父の運転する車に乗り込み、私は実家を出ました。


【白斑ができるまで5】父、言葉が出なくなる

白斑ができた頃のお話しの5つ目です。
前回のお話は、下記からどうぞ。 

madara-tsuma.hatenablog.com

 



大学3年生の私は、白斑治療に備えアルバイトに励み、学生最後の年のちょりとめいっぱい学生生活を楽しむこと、そして全国転勤がある企業への入社を目指すことに、気持ちをシフトしていました。相変わらず、家庭内はバタバタしていましたが、そのときは家での時間はどうやり過ごすかだけを考え、暇さえあれば外にいました。

大学卒業後はこの家を出よう、そう心に決めていたから。

この時期はとても心が安定していたと思います。目標の力、そして恋愛の力ってすごいものです。恋愛は女の子限定かもしれないけど。


そんな、学生最後の青春を謳歌していた秋口のある日、アルバイトを終えた私は地元の駅で、母に「あと少しで家に着くよー」と電話を入れます。

すると、「こんなときに一体何してるの」と母。

特に何の連絡も受けていなかった私は、その電話で、その日父が救急搬送されていたことを聞きます。家に着くなり、何が起きたかもよくわからないまま大慌てで病院に向かいました。

病院で受けた診断は、『脳梗塞』と『くも膜下出血』。

「出血範囲が広く、今は意識があるが、この夜が山かもしれない。状況によっては緊急手術をするけど、手術自体できない可能性もある。」

夜の病院で、母と弟と私に向かって、静かに医師は言いました。

ショックでした。

父方の祖父も数年前に脳梗塞を発症後他界しており、父もそう長くはないかもしれないと思いました。

一通り医師の説明を聞き、入院の手続きを終えた後、日付も変わろうとする時間にやっと集中治療室にいる父に会うことができました。半身が麻痺した父は、呼び掛けに反応し確かに意識はあるものの、言葉は出ませんでした。

「あ。ああ...…。」

だけ。

もしかしたら、もうこれ以上話すことはできないかもしれない。声が聴けるのも、これで最後かもしれない。そう思いながらも、早く父に休んでもらわねばと、「じゃぁ、もう帰るからね。また明日ね」と声を掛けました。

「ああ。」

そう、父は麻痺していない手を上げて答えてくれました。

本当は何を言いたかったのか、わからぬまま病室を去りました。

その夜が山だと言われた父の容体は、急変することなく、翌朝を迎えることができました。もちろんすぐ安心と言いうわけではありませんでしたが、無事出血が止まったことで、あとは薬の投与で様子を見ることになりました。

幸い、父は大事に至ることはありませんでした。入院も数週間で終わるという、驚異の回復でした。

しかし、緊急入院した日から、私の生活はまた一変しました。

アルバイトや学生生活を楽しみ、家庭内のゴタゴタから逃げるように生活をしていた私は、家での家事や病院の往復に再度シフトチェンジ。

というのも、母は『バセドウ病』が薬で少しコントロールできるようになったころから、職場復帰をしていました。早朝勤務や夜間勤務などもある忙しい職場で、全ての家事をこなしながら父の入院や通院の面倒まで見るのは不可能でした。

正直、こればっかりは仕方のないことです。元々両親共働きのかぎっ子なので、一通り家事がこなせること、また父の病気のことを考えれば、苦ということもありませんでした。弟も慣れないながら、このときばかりは少しだけお手伝いをしてくれていました。

(祖母も一緒に暮らしていましたが、料理が不得手で作りたがらず、ドラム洗濯機などの家電の使い方もわかりません。また、母との折り合いも悪い上に、孫の私にも「お前も母親(キチガイ)と一緒だ」などと言うため当時の関係は最悪で、期待はできませんでした。)

白斑の治療が後回しになってしまったことを悔やまなかった言えば嘘になりますが、今まで父も苦しかったのだろう、そのストレスからこうなってしまったのかもしれないと思うと、それ以上の思いは何も出てきませんでした。家庭内のことに積極的な人ではありませんでしたが、それでも父なりに家事に参加したり、母をなだめたり、それぞれと話し合いをしたりと奮闘していたことは確かです。解決に至らない長い家庭不和に疲れ一時は投げやりになることもありましたが、母の『バセドウ病』発症以降から倒れるまでの1年間は、本当に家族と向き合っていたと思います。

そして、父は、ゆっくりだけれど言葉が出るようになり、麻痺した半身が徐々に動かせるようになっていきました。穏やかな性格ですが、かなりの負けず嫌いなので、決して見せないけれど、人知れず努力をしていたのだと思います。

しばらくは考えたことがすぐ口から出てこなかったり、麻痺した利き手では文字を書けない、歩くのも遅いなど不便も多くありましたが、そのうち自転車にも乗れるようになり、仕事にも復帰できるほどまで回復していきました。本当に努力の賜物だなと思います。1年が経った頃には自動車の運転もできるようになり、病気になる前と大きな変化なく現在も過ごせています。

ところで、なぜ、父が『脳梗塞』と『くも膜下出血』を同時に発症したのかというと……

脳梗塞』の影響で半身麻痺が先に起きていたようで、それでも意識があった父は体の異変に気が付き立ち上がろうとしたところで、麻痺した足でバランスを失い転倒。テーブルに思い切り頭を打ったことで『くも膜下出血』を発症。

ということでした。

それでも意識があった父は、動けず叫べず、テーブルの脇でずっとしゃがんでいたようです。庭に出ていた母が気が付くまで何分も。

さぞかし怖い思いをしただろうと思いますが、元々、父は喜怒哀楽を感じることが少ないタイプで、本人もそれを悩んでいたほどですが、動かない体を「あれ?動かないな」くらいにしか思わなかったそうです。さすがにすごい。

そんなこんなで父のことでバタバタした後、なんと立て続けに祖母も転倒して怪我。まだ父が思うように動けない中、手術のための入院と、リハビリのための転院でまたまたてんやわんや。

私がようやっと本格的な白斑治療を始められるようになったときには、発症からすでに1年半近くが経過していました。


うつ発症後は入眠も夢見も最悪

こんにちは。今日見た夢が不気味で怖い、まだたんです。

見た夢は2本立て。

  • 夫のちょりがまた遊びに行くと言い出し喧嘩。しかも今度はパチンコ。
  • なぜか大地震予測。

まぁ、ここ数日で起きた出来事を引きずっているだけなのかな?とも思うのですが、地震に関してはとっても気味が悪いです。

寝るのにも時間が掛かって、夢まで見て、今日は一日とっても眠い……



と、『うつ病』を発症してから、睡眠の質が最悪です。

主治医の先生からは「そういう精神的な病気はどうしても睡眠に障害が出て、長引いてしまう」と言われ、私自身も仕方ないかーって思ってはいるのですが、どうにも厄介です。


入眠のし方がわからなくなる

抑うつ状態がひどいときは、どんなに疲れていても、さて寝ようと目を瞑った途端に、不安な思いが増幅されて頭がそのことでいっぱいになります。

あれやこれやと考えていて、寝れるわけがありません。

発症した頃、それを散々繰り返してしまった私。もう、抑うつ状態がひどくないときでも上手に入眠できません。

入眠のし方を忘れてしまったのかな、と思っています。

元々、お布団に入ると5分と経たず、下手したら数秒で即寝できる人間でした(それもどうなの笑)。休日いくら寝ていても、日曜日の夜はすぐ寝れて月曜日に備えられていたので、睡眠を摂ることに困る日が来るだなんて思ってもみなかったことでした。

今では、前々日くらいから調整していかないと、朝早い日などには対応できません。


入眠できても夢が邪魔

さらに、夢、特に悪夢も見るようになりました。夢自体ほとんど見ることがなかったのに。しかも、高確率で夢の内容を覚えてます。なぜ?

悪夢って、見ると本当に疲れます。寝たっけ?ってなります。

おかげで日中眠い。でも、寝ようとすると時間が掛かる。もう!

うつ病』を発症した当初は、夢の内容が発症の直接的原因となった出来事ばっかりで、寝るたびに辛い思いをし、睡眠を摂ること自体恐怖でした。

その頃と比べると、夢でちょりと喧嘩するくらいどってことない?地震も信じなきゃ良いのか。

でも、夢見なくて済むなら見たくないな。




ヒーリング曲(α波?)や自然の音(波や水中)を流したり、寝れるまでとにかく何も考えないようにスマホをいじってたりもしてますが、結局寝るまで時間が掛かるときは掛かるのし、夢を見るときは見ます。そう簡単には治らなさそうです。

スマホの明かりが良くないと聞きますが、隣では夫が寝ているし、眠れるタイミングを逃さないためには布団にいたいので、一番暗くしていじっています。もしくはラジオ。)

何か、いい方法はないものでしょうか。


自粛できない「罹ったら自業自得」な夫と喧嘩

こんにちは。まだたんです。

4月7日、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、7都府県を対象に、史上初となる緊急事態宣言が発令されました。

私の住む地域も対象地域です。

とは言え、街は、外出自粛要請が出ていた頃とそこまで変わらないというか。確かにピリッと緊張感が高まったようにも思いますが、老若男女スーパーに大挙して押しかけている様子を見ると、ただただ興奮材料を与えただけに思えてしまうときもあります。

夫のちょりは、能天気に、「イベントみたいだよねー」とか言ってます。

そういえば、ちょりのイラストがこんな感じに仕上がりました。

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あれれ、エセなんとかって感じ。敢えてバサバサまつ毛のクリクリおめめは描かなかったのですが、実際には童顔の坊ちゃんぽい顔です。

その夫と、先日久しぶりに夫婦喧嘩をしました。それも、この自粛がらみで。




2月、新型コロナウイルスの影響でちょっと世の中がバタバタし始めた頃、ちょりが友人たちと遊ぶ約束をしたと話してきました。

奥さんが出産で里帰り中の友人がいて、お子さんはもうすでに生まれたそうですが、しばらくは帰って来ないんだとか。帰ってくる前に、お祝いがてら麻雀して遊ぼうよという話になったんだそう。

私は「こんなときに何も麻雀しなくったって。そもそも雀荘なんて……」とグチグチ言っていたのですが、どうやら奥さんが里帰り中の友人宅でやることになったらしい。

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それでも、奥さんが長期不在のお宅に男友達で集まるのって私なら嫌だな、とか、新生児が戻ってくる予定なのに、何も変なウイルス出てるタイミングで麻雀なんてしなくても......

と思いましたが、お祝いもしたいと言うし、雀荘よりはマシということで、「お邪魔するおうちの後片付けはしてね」とだけ言い、それ以上は何も言いませんでした。

ただその後、麻雀に行く度に次の麻雀の約束をしてきます。そして3月、3回目の麻雀の約束をしてきました。予定は、4月上旬。

理由は、この感染症の事態を鑑みて、友人の奥さんの帰宅が延期になったから。

私は、この期に及んでそんな約束をしてる男たちを、しょうもないなーと思ってました。

そのうちに、緊急事態宣言がもうもう発令されるよって段階に。私が「今度の予定はやめたら?」というと、ちょりも「それはさすがにね」と納得した様子でした。

そして、つい先日、緊急事態宣言が発令された直後。

たまたまちょりのいじっていたスマホ画面が見え、そこには麻雀についてのやり取りが。ちょりは「今回はやめとこう」と送っていますが、どうやら友人の一人が渋っている様子。

おいおい緊急事態宣言出てもやるのか?と思い、「どうするの?」と聞くと、

「だって、まだたん(麻雀行くの)嫌がるでしょ?」

そこか?と思って、問い詰めると、出るわ出るわ言い訳の数々。

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「納得してたくせに、そんなに行きたいのか」とイライラし始めた私に、「「それでもダメでしょ」ってばっさり言ってくれれば」と逆ギレ。

なぜ私がダメだと言わないと、ダメだと思えないのか。

ていうか、散々言ったから!なのにまだわからないのか、このメガネ!

本当に久しぶりにとーっても腹が立ちました。

「休日の電車が空いてるから」「行った先は少人数だから」なんて理由で、遊びに行こうとする人がこんな身近にいるとは思いませんでした。「みんながそう思って、みんなが外出したら、それはダメなんじゃないの?」と聞くと、「それはわかってる」と言うのに、どうにも自分ひとりくらいいいだろう、みたいな感覚でいる夫。

しかも、ニュースで、旅行中感染した人や、街で遊ぶ若い子を見て、ギャーギャー文句を言ってるくせに、自分は良いのかとツッコむと、「それは自業自得」と言ってくる始末。

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言わせてください。

「自業自得」は、今回のような場合に当てはまるような言葉では断じてない!!

「自業自得」は「自分の行いの報いを自分が受けること」です。

事態を軽く見て外出している人たちが罹って、本人が辛いのは当たり前です。

でも、本人が辛いだけで終わりですか?

家族がいれば家族に心配を掛け、またその家族にも感染させるリスクがあり、感染させてなくても隔離として自由を奪うことになります。家族でなくても、友人、職場の人、たまたま近くにいた人、そして、治療や検査に関わる、医療従事者の方、保健所職員の方を巻き込みます。治療をすれば、それだけお金だって掛かります。本人の負担が3割だとして、7割は国民みんなから集めているお金です。

それがわかって言ってんのか、このメガネ!!!(言葉が汚くてごめんなさい)

「自業自得」だとのたまうなんて、めちゃくちゃ無責任です。

夫のちょりもそうですが、ちょりの友人もいささか責任感が欠如しているのでは、と思わざるを得ません。

新型コロナウイルスがどうとか以前に、そういったときに自分から「やめよう」と思えない、その思考力のなさが私にとっては大問題。

一緒に暮らす家族に移しちゃいけないとか、新生児の赤ちゃんが帰ってくるんだからとか、なぜ思えないのか。

他にも、ちょりからは、「麻雀が嫌いだからそんなこと言うんだろう」とか「友人を悪く言わないで」みたいにも言われましたが、私は今好き嫌いのことを話しているわけではないし、そもそもあなたがその考え方おかしいよって友人を諭してあげてくださいって思います。(新生児を迎える予定で、父親の自覚はまだないのかもしれないけど、その考え方でいられたら奥さん絶対迷惑だから!)

もしこれが家族との生活を守るために働かざるをえないという出来事であれば、もっと違うのですが、小さい子だって理由もわからず我慢をしているのに、30過ぎの男が何言ってんだって話です。

普段のちょりは家事にも積極的で、私の抑うつ状態がひどく苦しいときも文句ひとつ言わず、また遊びも全て断って片時も離れず、そばにいてくれます。本当に優しい、気の利く人だと思ってます。

だからって、それとこれとは話が別!

今回の件で、私は一切ちょりの意見に歩み寄るつもりはなかったので、こんこんとお説教させていただきました。




みなさんのご家庭は、外出自粛に対する意識の違いってありますか?

普段気の合う夫と、まさかこんなことで喧嘩になるとは思いませんでした。

不安になる情報ばかりで気分転換も確かに難しい。でも、嫌な思いをしているのは誰か一人だけじゃない。愚痴ならたくさん聞いてあげるから、外出だけは我慢しようよ。

と、心から思います。


「毒親」と呼べない子ども

こんにちは。まだたんです。

ここ最近ブログの更新が滞ってしまい、アクセスも激減してしまいました。

実は実家で飼っている犬に肉腫ができてしまって術後の様子を見に行ったり、母からのメッセージで落ちたり、そうこうしているうちに夫のちょりの仕事が緊急事態宣言の影響で休みになったり、バタバタしていました。

白斑ができるまで4』もなかなか上手にまとまらず、というか多くのことが重なったタイミングのお話になるので、内容を詰め込もうとすると主旨もぼやけて、なぜかうすーいお話になってしまう……

やっと『白斑ができるまで4』を投稿したときには、何日も経過してしまいました。

毎日投稿できる方って、本当にすごい!

私も始めたからにはもう少しちゃんとやりたいな。

前置きがうんと長くなりましたが、今回は、最近落ちてしまった(抑うつ状態に陥った)お話をしようと思います。とっても長いです笑

ネガティブな表現が多いので、引きずられちゃいそうな方は今読むのはやめてくださいね。



最近落ちた母の言葉

数日前、母から「白斑とか、いろんなことで、私のこと恨んでるんだよね」と、「急にごめんね」と前置きを付けた形で唐突にメッセージが来ました。

その前日、母発信で白斑の治療の話になりました。それでなのか、白斑発症から数年後に私が「何もしてくれなかった」と訴えていたことを思い出したようです。

確かにそう言いました。否定はしません。

でも、今更そのことを蒸し返してきて、恨んでるかを問われて、私は何と言ったらいいんでしょうか。

どう話すべきか悩んだ私は、メッセージでの連絡は良くないと思い、急いで電話を掛けます。

電話に出た母は、「どうしたの?」という私の問いに、「確かに何もしてなかったと思って」と言い、「家に来るのも辛いなら、誘わないようにしたり、付き合い方を変えないとと思って」と続けます。

もう、グサグサ刺さります。

この言葉を引きずりまくった私は、この数日後久しぶりにめちゃくちゃ落ちました。


そもそもうちの母は......

白斑ができるまで」でも母の性格についてお話していますが、母は、自身を悪く言われたりすることに対し、とても敏感です。自分に分が悪い発言や状況を受け止めながら、建設的な会話ができる人ではありません。「じゃ、私が悪いのね」と、感情が暴走しイカリまくり、どんな時間でも家を出ていく。なので、私が少しでも悪く受け取られるような発言をすれば、母と一緒に暮らす他の家族に迷惑が掛かります。

だから、日ごろから強い発言は避け、言わなくてはいけないことはオブラートに包みながら、それでも親子として距離感を感じさせないように気を付けて話しています。

前日に白斑の話になったときも、発症からすでに5年以上経った今そんな話題を出されて、もちろん心中穏やかではありませんでしたが、明るく返したつもりです。

それは、実家を離れた私には家をかき乱す権利がないと思うのもあるけれど、母自身にだって穏やかに暮らしてほしいくらいには愛情があって、お互いが幸せに暮らすためには多少の脚色も必要だと思っているから。

なのに、どうして母の口からこんなことを聞かないといけないのでしょうか。

きっと、この私の考え方、母の言葉の捉え方は賛否両論あることでしょう。

でも、私はこう考えてしまうんです。捉えてしまうんです。

うーん……

もっと、正直に言ってしまえば、母の言葉こそかつて私に言い続けた「悲劇のヒロイン」的発想から来ているのだと感じずにはいれません。

だって、この発言を受けて私は本音を返せないもの。私の本音を言って、それでも家族で一緒に解決していくことは端から考えていないんだもの。私がざわざわする気持ちを隠して脚色した、母の気分が良くなる言葉を聞いて、安心したいだけ。私への心配やそれを解決するものではなく、ただただ自分の不安を私に押し付けているだけ。

そう思ってしまいます。


かと言って「毒親」とも呼べない

私が『うつ病』を発症した直接的要因、トドメは全く別ですが、元々家庭環境の不安も強くあった私は、最近ではこういった家族との、主に母とのやり取りで落ちていき、抑うつ状態に陥ることが多くなっています。

夫のちょりが「本当にいい迷惑」と、バッサリ切り捨てるような発言が目立つほど、母から受ける影響が強すぎています。

私自身も「逃げる」ことを考えながら、できる限り真正面から向き合わないよう気を付けています。

だから、母に対する嫌悪を、強く抱くことができるときもあります。

でも、母の全てを恨めるわけではありません。

きっと、多くの子どもが、嫌でも、たとえ憎くても親に一定の愛を感じずにはいられません。辛くても、一緒にいたいと思うものだと思っています。

だから、私も安易に離れることを選ぶことができず、また安易に離れるだなんて言葉を母から聞きたくもありません。

それでも、うちの母は、昔からしょっちゅう「じゃあ出ていく」を口癖のように使います。それは子どもにとっては脅迫で、そして何よりも子どもの価値を否定する言葉です。

最近は本当に、親が子どもへそういう言葉を掛け続けることへの罪深さを感じています。

なのに、母の全てを恨めない私は、母を「毒親」と呼べません。

いつでも、母にとってのいい子でいたいし、可愛い娘と思われていたいという気持ちがとてつもなく強い。もう30を目前にしたいい大人なんですけど......

だからなのか、『まだ見ぬ、このブログを読まれる方へ』で、家族のことを「勝手なお願いですが、できればあまり悪く思いすぎないで、と思っています」と言ったりしちゃいます。

本当にまだら色すぎる。

もしも、母の行為が、殴る蹴るという暴力や、「死ね」などの罵倒、ネグレクトだったら、私は母の全てを恨めたのでしょうか?

毒親」と呼ぶことができたのでしょうか?




上記表現は、実際に暴力や罵倒、ネグレクトを経験された方には大変失礼な表現なのかもしれません。申し訳ございません。

ですが、激しすぎる虐待がピックアップされる中、もちろんそのニュースで心を痛めてもいますが、自分が受けたものは何と呼ぶのかとも考えます。

激しすぎる虐待は、虐待する側がどう思うかは別として、他者からは明らかに虐待であると認識されやすいと思います。(それでも事件が明るみになることが少ない現状は許すことができません。)

でも、虐待だと一概に言いにくいものがあることは事実で、全ては程度の問題なのですが、その程度というのが明示されないのが「しつけ」という言葉だと思います。

長すぎる記事で、読むのも辟易する内容だったかと思いますが、ぜひ、最後まで読まれた方には、そういった、しつけと虐待、愛情と嫌悪の狭間で苦しむ子どもがいることにも、気付いてほしいなと思っています。


【白斑ができるまで4】それでも救われていく心

白斑ができた頃のお話しの4つ目です。
前回のお話は、下記からどうぞ。 

madara-tsuma.hatenablog.com

 



当時、ちょりは、同じ大学の別キャンパスに通う、サークルで出会った、年齢も学年も1つ上の先輩。彼は、趣味の話もできる、世話焼きなお兄さんみたいな存在で、私だけでなく、多くの後輩から懐かれる人でした。

「逃げる」ということを、初めて彼から言われたのは、実際には暴漢に襲われ怪我を負うよりも、もう少し前のことです。そのときのことは、ちょりとの馴れ初めのお話をするときにでも。もちろん初めて言われたときから、私の考え方に少しずつ影響してきてはいましたが、この事件のときが、一番彼に、そしてこの「逃げる」という言葉に救われた気がします。何しろ、家庭の問題に加え、母の病気、さらに私の事件と、トリプルパンチでしたから。

事件当日、母から平手打ちをくらい家族に打ち明けられずにいたときも、彼は熱心に私の話に耳を傾け、大学に行けば松葉杖での移動に手を貸してくれました。

そして、そんな状況でも冷えきった家族の団らんを夢に見て、それが叶わない苦しさを抱える私に、常に優しく「逃げる」ことを諭し続けてくれました。

「逃げる」という言葉は、立ち向かうだけが正しいと思っていた私にとって、どんな励ましの言葉よりも、どんな慰めの言葉よりも、救いでした。

真正面から向き合い続ける必要はない。そう思えました。

実際に行動に移すことは、当時の私にはとても難しいものでした。でも、心のどこかで「逃げてもいい」と思えることが、私の心の拠り所でした。

私が自分から言う以外で、白斑に気付いてくれたのも、ちょりだけでした。彼から指摘を受けたことで、より気になるようにはなったことは否定しませんが、母からあしらわれてしまったものに対する、「それ、どうしたの?」という一言がとても嬉しかったことを覚えています。

私が欲しかった言葉を、たまたま彼が言ってくれた、それだけのことなのかもしれません。でも、そこが大切なんだと思います。

そんな出来事が重なり、ちょりを意識し始めて数か月、彼とお付き合いを始めました。本当に、彼と出会い、彼と仲良くなり、そして恋人となれたことは、私にとって当時唯一の幸せな出来事です。

恋人になってくれたちょりは、より一層献身的に私を支えてくれました。不安に陥りやすく、相手の都合も考えず連絡を取る私に、彼はどんな時間でも付き合ってくれました。繰り返される家族の相談、同じような話ばかりのはずなのに、嫌な顔をしたことは一度もありません。半ば投げやりになっていた白斑についても、ちゃんと病院に行くよう説得もしてくれました。本当にできた人です。

そんなちょりがいることで、私は、大学卒業後この家から実際に「逃げる」ことを目標にすることができました。

しかし、それでも、やはり日々のストレスは蓄積されてしまうようで、そのうち私の体には白斑以外の異変が起きます。

それが、『急性低音型感音性難聴』。

室外機が常に耳元にあるような、異様な耳鳴り。人の声や自分の声も聞き取りにくくなり、大きな病院に行ってみたところ、そう診断を受けました。「気にしやすい人がかかりやすく7割が1週間で治る」とお医者さんから言われた通り、そのときは、そこまで長引くことなく治りました。しかし、今もなお、耳閉感(耳が詰まったような感覚)や、ざわざわという耳鳴りが時折起こります。テレビなどの電子音も、耳鳴りを引き起こしやすいため、それ以降苦手になってしまいました。

ストレスって本当に怖いものです。

次から次へと今まで聞いたことのない病を連れてきます。

難聴が落ち着き、再三ちょりから促された私は、ようやく白斑に詳しい専門的な医師がいると評判の病院に行くことを決めます。それまで、白斑の件で全く病院に行っていなかったのかというと、そういうわけではありません。地元の小さな皮膚科の病院と、甲状腺機能の異常を疑っての甲状腺の専門病院*1を受診していました。ただ、どれも白斑が完治するような治療は受けられませんでした。

こうして専門的な治療を受けようと決めたものの、家のお財布事情的にも、また私の心理的にも、親から通院の金銭的援助をお願いすることはできませんでした。いくら掛かるかわからない治療費を貯めるため、暴漢にあって以降することのなかったアルバイトを始めました。

でも、実際に「逃げる」ことを目標にすることができた私は、比較的前向きに考えられるようになっていて、その頃は今後の話をちょりとしながら、楽しいひと時を過ごしていました。


*1:稀に甲状腺機能の異常で白斑が起こることがあります。

洗われたいモヤモヤ、と桜

こんにちは。まだたんです。
今回は、少々トゲのある内容になります。ごめんなさい!

『白斑ができるまで』のお話でもそうですが、私は昔から、悪いこと、悪い言葉に縛られやすいです。うつ病になったこともあり、歳を重ねたことでむしろその傾向が強まったとも言えます。

最近、母と電話をしたとき、今後の話になりました。

私はうつ病になって以降、仕事をしておらず、そろそろ子どもが欲しい歳ということもあって、正規でしっかり働くことには消極的です。せっかく落ち着いてきた抑うつ状態がまたぶり返すのも怖いので、仕事のことは徐々に考えていきたい。

そう、母にも話しています。

ただ、それを知っていても、母の余計なお世話トークは止むことがありません。

「あの資格、どうするの?取るの?」

と、母は、母自身が軽いノリで薦めてきた資格のことを、本気にして聞いてきます。

「いや、子どももそろそろ考えたいし、時間が必要な資格は考えていないよ。」

そう私が答えると、

「えー、子どもできるの?」

と、母。

さすがに、お小言を言わずにはいられませんでした。

「あのね、自分の娘だからまだいいけど。それ、言っちゃいけないからね?」

そう実の娘に言われても、母は「えー、そうなのー?」と、あっけらかん。どうやら少しお酒が入って、酔っていたようですが、それでも言いたい。

言って良いことと、悪いことがあるでしょうが!

最近の母は、ここ数年の環境の変化などで、『白斑ができるまで』にあるような、激しすぎる感情の起伏は、すこーし収まっています。それでも、言ってくることは相変わらずマイペースです。

私がうつ病を発症した当初、抑うつ状態がひどい中、それでも親の前ではできる限り明るく振る舞っていると、

「本当にうつなの?」

と、平気でうつ病患者に聞いてきます。

今の時代、大変便利なネットというものがあるのだから、ぜひ調べてから聞いてきてくれ!

うつ病を患っていたって、笑うことができる人はいます。でも、その笑顔の真相は誰にもわからない。笑顔を作っている本人だって、どうして自分は今笑顔なのかと悩むことだってあります。本当に楽しくて笑えていても、次の瞬間には悲しさやどうしようもない虚しさが降ってくることも。

寄りそえないなら、わからないなら、どの言葉も口にしないでほしい。

確かに不思議に思うことだってあるでしょう。何も聞くなとは思いません。でも、何でも聞いていいわけでもないでしょう?

その病で苦しんでる人が「本当にその病気なの?」だなんて疑われたら、そりゃ辛くもなります。薬が合っていないとかで疑われるなら、また別かもしれないけど。

子どものことも、ほしい気持ちだけではつくれない。私自身の精神状態や、我が家の財政状況、ちょりも学生だし、と考えないといけないことはたくさんあります。

つくってしまえば、どうにかなるかもしない。だけど。でも……

私の母は、予定通りに子ども(私)を授かりました。なので、身体的に、あるいは状況的に、子どもができない人の気持ちはわからないのかもしれません。あとは、実の娘ということで、思ったことをつい口にしてしまうということもあるのでしょう。

いつも相手の顔色を窺って話せ、とは思いません。

だとしたって、マイペースに発言するにもほどがある!

昨日今日はとってもポカポカ陽気で、銀行回りや買い物をしながらぶらぶら歩いていたのですが、ふと母の発言を思い出しては、モヤモヤしていました。

ただ、母のフォローをするなれば、母の実母、すでに亡くなっている私の祖母は、さらに自分のペースで、また思慮のない言葉を使う人でした。そして、母の育った環境も特殊でした。

そう考えると、親の性格や、家庭環境は大切だなと思うと同時に、私自身の性格や、私たち夫婦がこれから作っていくであろう、家庭環境について不安になります。

外出することすら憚られる中、必要な買い物がてら楽しむ、街角の綺麗な桜くらい、もっと澄んだ心で、純粋に楽しみたいものです。

あーもう!


ということで、今年もとっても綺麗に花を咲かせている、桜の写真をいくつかどうぞ。

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曇りがちでしたが、スマホでこんなに綺麗に撮れるなんて、本当に便利な世の中になったものです。

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実は昨日もとても素敵な桜の写真が撮れたのですが、間違って消してしまって。

そのことをちょりに話していたら、今日の買い物に一緒に来てくれました。私が半べそかいてごねてたからだと思うけど。

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それにしても、本当に見事な桜で、時折吹く暖かい風で起こる花吹雪も、全ての意識を私から奪って、このまま私も綺麗な何かになれるような気がしてしまいます。

なれないけどさ。

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買い物がてらふらふらと桜を楽しむのも、桜は不要不急でしょと怒られちゃうかもしれないけど、見て「きれいだねー」と言い合えるだけで気持ちが安らぐ桜は、偉大な存在です。

(これを読んでくださる皆さんにも、「きれいだねー」と言わせてください。)

だから、そんな桜に、勝手な自分の事情でケチをつけてしまいそうな気持ちは、どこかに閉じ込めてしまいたい。



大きくなっても神さまがいて、不思議に夢を叶えてー!

あ、おとなになっても奇蹟はおこるんだった。

桜の木も、魔女の宅急便も、大人になって観るとより素敵。