まだら色になった妻

まだら色になった妻

結婚1年目でうつ病になった、気分も肌色もまだらな妻のブログ。たまに学生夫のこと。

【白斑ができるまで3】ぐちゃぐちゃになる

白斑ができた頃のお話しの3つ目です。
前回のお話は、下記からどうぞ。

madara-tsuma.hatenablog.com

 



被害届を出したあと、他の多くの事件と同様に事情聴取を受けました。何が起こったのかをしっかり聴いてもらい、現場検証や、事件の再現などもしていただきました。

(ですが、事件から8年程が経過した今でも、犯人は捕まってはいません。)

足の怪我が完治するまでの期間は、そうした警察とのやり取り以外は、基本的には家でふさぎ込んでいました。暴漢にあった事実、それによる足のひどい痛みにも常に苦しみ、毎日のように泣いていました。

事件の日に遅く帰宅した私を平手打ちした母は、ふさぎ込む私を心配をし、学校や病院への送り迎えをしてくれたり、気分転換に一緒に出掛けたりもしてくれました。それでも、そのうち、病気も相まってなのか、母はイライラし、泣く私を「悲劇のヒロイン」と揶揄するようになっていきました。

「自分のことを悲劇のヒロインと思っているんでしょ。」

幼い頃からよく泣く私に対し、母はその言葉を決まり文句のように使っていました。昔は、こう言われるのは泣き虫の自分が悪いんだと思っていたため、「そんなことは思ってないから。ごめんなさい。」と、流れる涙を必死に止めて、謝っていました。

でも、その言葉をこの状況でも使う母に、徐々に疑問を持つようになりました。

当然ながら、危機意識の低い自分にも非はあったと、その当時も思っていました。だとしても、それは暴漢にあっていい理由にはならないと思っていますし、悲しくなってはいけない理由でもないと思っています。だからこそ、それを「悲劇のヒロイン」とあしらう母の言葉が、辛くてたまりませんでしたし、不快感を覚えずにはいられませんでした。

この頃から、私は、それまで無頓着でいた頬の白いシミのことが、気になり始めました。

「なんでこうなってしまったんだろう。」

それまでの家族関係のことと母の病気に、怪我も重なり、そこへ少しずつ気になりだした消えない白いシミ。母が言うように確かに悲劇的な気持ちではありました。白いシミについては、調べれば調べるほどあまり良い情報はなく、不安になるだけでした。

母にも相談をしましたが、真剣に向き合ってはくれませんでした。

「そんなに気にならないよ」
「元々色白で良かったじゃない」

これは前向きな言葉なのかもしれない。私がふさぎ込んでいるから、敢えてそう声を掛けたと、受け取っても良かったのかもしれない。ですが、たった一人のお母さんに、できれば「大丈夫?」と言って欲しかった…...

からしつけに厳しく、激高しやすく、物心ついたときから母に抱っこをされた記憶もなく、弟がぎゅーっとされている羨ましさから、おねだりをしても、「女同士は気持ち悪いから嫌だ」と一蹴。日々怒られ、謝り続けても許されないストレスから、自分の腕に血が出るほど爪を立てることもありました。

でも、それだけの人なわけでもありません。いろんなところに連れて行ってくれて、仕事で忙しくてもおいしいご飯を作ってくれるし、心配をするときは過保護なほど心配をしてくれます。楽しく話せるときもたくさんあります。

でも、それは母の気分次第。

全て母が悪いだなんて、言うつもりはありません。弟の反抗期も、確かに長すぎましたし、父も協力的とは言えませんでした。私自身だって、全て完璧とは到底言えません。

でも、もう、疲れて果ててしまっていました。

理由をこじつけて家族を好きでいることに。

そんなときに、今も夫として私を支えてくれている、ちょりとよく連絡を取るようになりました。当時、大学の先輩だったその人は、自分にはなかった選択肢を与えてくれました。

それは、「逃げる」こと。