まだら色になった妻

まだら色になった妻

結婚1年目でうつ病になった、気分も肌色もまだらな妻のブログ。たまに学生夫のこと。

【白斑ができるまで5】父、言葉が出なくなる

白斑ができた頃のお話しの5つ目です。
前回のお話は、下記からどうぞ。 

madara-tsuma.hatenablog.com

 



大学3年生の私は、白斑治療に備えアルバイトに励み、学生最後の年のちょりとめいっぱい学生生活を楽しむこと、そして全国転勤がある企業への入社を目指すことに、気持ちをシフトしていました。相変わらず、家庭内はバタバタしていましたが、そのときは家での時間はどうやり過ごすかだけを考え、暇さえあれば外にいました。

大学卒業後はこの家を出よう、そう心に決めていたから。

この時期はとても心が安定していたと思います。目標の力、そして恋愛の力ってすごいものです。恋愛は女の子限定かもしれないけど。


そんな、学生最後の青春を謳歌していた秋口のある日、アルバイトを終えた私は地元の駅で、母に「あと少しで家に着くよー」と電話を入れます。

すると、「こんなときに一体何してるの」と母。

特に何の連絡も受けていなかった私は、その電話で、その日父が救急搬送されていたことを聞きます。家に着くなり、何が起きたかもよくわからないまま大慌てで病院に向かいました。

病院で受けた診断は、『脳梗塞』と『くも膜下出血』。

「出血範囲が広く、今は意識があるが、この夜が山かもしれない。状況によっては緊急手術をするけど、手術自体できない可能性もある。」

夜の病院で、母と弟と私に向かって、静かに医師は言いました。

ショックでした。

父方の祖父も数年前に脳梗塞を発症後他界しており、父もそう長くはないかもしれないと思いました。

一通り医師の説明を聞き、入院の手続きを終えた後、日付も変わろうとする時間にやっと集中治療室にいる父に会うことができました。半身が麻痺した父は、呼び掛けに反応し確かに意識はあるものの、言葉は出ませんでした。

「あ。ああ...…。」

だけ。

もしかしたら、もうこれ以上話すことはできないかもしれない。声が聴けるのも、これで最後かもしれない。そう思いながらも、早く父に休んでもらわねばと、「じゃぁ、もう帰るからね。また明日ね」と声を掛けました。

「ああ。」

そう、父は麻痺していない手を上げて答えてくれました。

本当は何を言いたかったのか、わからぬまま病室を去りました。

その夜が山だと言われた父の容体は、急変することなく、翌朝を迎えることができました。もちろんすぐ安心と言いうわけではありませんでしたが、無事出血が止まったことで、あとは薬の投与で様子を見ることになりました。

幸い、父は大事に至ることはありませんでした。入院も数週間で終わるという、驚異の回復でした。

しかし、緊急入院した日から、私の生活はまた一変しました。

アルバイトや学生生活を楽しみ、家庭内のゴタゴタから逃げるように生活をしていた私は、家での家事や病院の往復に再度シフトチェンジ。

というのも、母は『バセドウ病』が薬で少しコントロールできるようになったころから、職場復帰をしていました。早朝勤務や夜間勤務などもある忙しい職場で、全ての家事をこなしながら父の入院や通院の面倒まで見るのは不可能でした。

正直、こればっかりは仕方のないことです。元々両親共働きのかぎっ子なので、一通り家事がこなせること、また父の病気のことを考えれば、苦ということもありませんでした。弟も慣れないながら、このときばかりは少しだけお手伝いをしてくれていました。

(祖母も一緒に暮らしていましたが、料理が不得手で作りたがらず、ドラム洗濯機などの家電の使い方もわかりません。また、母との折り合いも悪い上に、孫の私にも「お前も母親(キチガイ)と一緒だ」などと言うため当時の関係は最悪で、期待はできませんでした。)

白斑の治療が後回しになってしまったことを悔やまなかった言えば嘘になりますが、今まで父も苦しかったのだろう、そのストレスからこうなってしまったのかもしれないと思うと、それ以上の思いは何も出てきませんでした。家庭内のことに積極的な人ではありませんでしたが、それでも父なりに家事に参加したり、母をなだめたり、それぞれと話し合いをしたりと奮闘していたことは確かです。解決に至らない長い家庭不和に疲れ一時は投げやりになることもありましたが、母の『バセドウ病』発症以降から倒れるまでの1年間は、本当に家族と向き合っていたと思います。

そして、父は、ゆっくりだけれど言葉が出るようになり、麻痺した半身が徐々に動かせるようになっていきました。穏やかな性格ですが、かなりの負けず嫌いなので、決して見せないけれど、人知れず努力をしていたのだと思います。

しばらくは考えたことがすぐ口から出てこなかったり、麻痺した利き手では文字を書けない、歩くのも遅いなど不便も多くありましたが、そのうち自転車にも乗れるようになり、仕事にも復帰できるほどまで回復していきました。本当に努力の賜物だなと思います。1年が経った頃には自動車の運転もできるようになり、病気になる前と大きな変化なく現在も過ごせています。

ところで、なぜ、父が『脳梗塞』と『くも膜下出血』を同時に発症したのかというと……

脳梗塞』の影響で半身麻痺が先に起きていたようで、それでも意識があった父は体の異変に気が付き立ち上がろうとしたところで、麻痺した足でバランスを失い転倒。テーブルに思い切り頭を打ったことで『くも膜下出血』を発症。

ということでした。

それでも意識があった父は、動けず叫べず、テーブルの脇でずっとしゃがんでいたようです。庭に出ていた母が気が付くまで何分も。

さぞかし怖い思いをしただろうと思いますが、元々、父は喜怒哀楽を感じることが少ないタイプで、本人もそれを悩んでいたほどですが、動かない体を「あれ?動かないな」くらいにしか思わなかったそうです。さすがにすごい。

そんなこんなで父のことでバタバタした後、なんと立て続けに祖母も転倒して怪我。まだ父が思うように動けない中、手術のための入院と、リハビリのための転院でまたまたてんやわんや。

私がようやっと本格的な白斑治療を始められるようになったときには、発症からすでに1年半近くが経過していました。