まだら色になった妻

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結婚1年目でうつ病になった、気分も肌色もまだらな妻のブログ。たまに学生夫のこと。

【白斑ができるまで4】それでも救われていく心

白斑ができた頃のお話しの4つ目です。
前回のお話は、下記からどうぞ。 

madara-tsuma.hatenablog.com

 



当時、ちょりは、同じ大学の別キャンパスに通う、サークルで出会った、年齢も学年も1つ上の先輩。彼は、趣味の話もできる、世話焼きなお兄さんみたいな存在で、私だけでなく、多くの後輩から懐かれる人でした。

「逃げる」ということを、初めて彼から言われたのは、実際には暴漢に襲われ怪我を負うよりも、もう少し前のことです。そのときのことは、ちょりとの馴れ初めのお話をするときにでも。もちろん初めて言われたときから、私の考え方に少しずつ影響してきてはいましたが、この事件のときが、一番彼に、そしてこの「逃げる」という言葉に救われた気がします。何しろ、家庭の問題に加え、母の病気、さらに私の事件と、トリプルパンチでしたから。

事件当日、母から平手打ちをくらい家族に打ち明けられずにいたときも、彼は熱心に私の話に耳を傾け、大学に行けば松葉杖での移動に手を貸してくれました。

そして、そんな状況でも冷えきった家族の団らんを夢に見て、それが叶わない苦しさを抱える私に、常に優しく「逃げる」ことを諭し続けてくれました。

「逃げる」という言葉は、立ち向かうだけが正しいと思っていた私にとって、どんな励ましの言葉よりも、どんな慰めの言葉よりも、救いでした。

真正面から向き合い続ける必要はない。そう思えました。

実際に行動に移すことは、当時の私にはとても難しいものでした。でも、心のどこかで「逃げてもいい」と思えることが、私の心の拠り所でした。

私が自分から言う以外で、白斑に気付いてくれたのも、ちょりだけでした。彼から指摘を受けたことで、より気になるようにはなったことは否定しませんが、母からあしらわれてしまったものに対する、「それ、どうしたの?」という一言がとても嬉しかったことを覚えています。

私が欲しかった言葉を、たまたま彼が言ってくれた、それだけのことなのかもしれません。でも、そこが大切なんだと思います。

そんな出来事が重なり、ちょりを意識し始めて数か月、彼とお付き合いを始めました。本当に、彼と出会い、彼と仲良くなり、そして恋人となれたことは、私にとって当時唯一の幸せな出来事です。

恋人になってくれたちょりは、より一層献身的に私を支えてくれました。不安に陥りやすく、相手の都合も考えず連絡を取る私に、彼はどんな時間でも付き合ってくれました。繰り返される家族の相談、同じような話ばかりのはずなのに、嫌な顔をしたことは一度もありません。半ば投げやりになっていた白斑についても、ちゃんと病院に行くよう説得もしてくれました。本当にできた人です。

そんなちょりがいることで、私は、大学卒業後この家から実際に「逃げる」ことを目標にすることができました。

しかし、それでも、やはり日々のストレスは蓄積されてしまうようで、そのうち私の体には白斑以外の異変が起きます。

それが、『急性低音型感音性難聴』。

室外機が常に耳元にあるような、異様な耳鳴り。人の声や自分の声も聞き取りにくくなり、大きな病院に行ってみたところ、そう診断を受けました。「気にしやすい人がかかりやすく7割が1週間で治る」とお医者さんから言われた通り、そのときは、そこまで長引くことなく治りました。しかし、今もなお、耳閉感(耳が詰まったような感覚)や、ざわざわという耳鳴りが時折起こります。テレビなどの電子音も、耳鳴りを引き起こしやすいため、それ以降苦手になってしまいました。

ストレスって本当に怖いものです。

次から次へと今まで聞いたことのない病を連れてきます。

難聴が落ち着き、再三ちょりから促された私は、ようやく白斑に詳しい専門的な医師がいると評判の病院に行くことを決めます。それまで、白斑の件で全く病院に行っていなかったのかというと、そういうわけではありません。地元の小さな皮膚科の病院と、甲状腺機能の異常を疑っての甲状腺の専門病院*1を受診していました。ただ、どれも白斑が完治するような治療は受けられませんでした。

こうして専門的な治療を受けようと決めたものの、家のお財布事情的にも、また私の心理的にも、親から通院の金銭的援助をお願いすることはできませんでした。いくら掛かるかわからない治療費を貯めるため、暴漢にあって以降することのなかったアルバイトを始めました。

でも、実際に「逃げる」ことを目標にすることができた私は、比較的前向きに考えられるようになっていて、その頃は今後の話をちょりとしながら、楽しいひと時を過ごしていました。


*1:稀に甲状腺機能の異常で白斑が起こることがあります。