まだら色になった妻

まだら色になった妻

結婚1年目でうつ病になった、気分も肌色もまだらな妻のブログ。たまに学生夫のこと。

【白斑ができるまで1】近づいてくる限界点

白斑ができる前、私が暮らしていた実家の家は、一見特筆すべき点はなさそうな、ごくごくありふれた一般家庭でした。元々は父と母と弟と姉の私の4人家族。そして、犬や猫。有り余るほど裕福ではないけれど、家族旅行には毎年行っていて、金銭的な不自由をしたことはありませんでした。


ただ、母はよくしゃべる、元気で明るい人ですが、一方しつけにはかなり厳しく、一度腹を立てると収まりどころを見つけるのが難しい人でもありました。お尻がジンジンと赤くなるほど叩かれるのはよくあることで、あるときは自分の手が痛くなるからと、カンカンのお菓子の蓋で叩かれることもありました。物を投げたり壊したり、さらにヒステリックなモードに入ると、小学生の私たちに対して、「こんな風に育ててしまってごめんなさい」と号泣したりもしました。

もちろん、こういったことは理由なく行われていたわけではありません。でも、傍から見れば行き過ぎたしつけだったんじゃないかと、私も子を持つ年齢になって、思います。

そんな母の過剰なしつけに対してなのか、小学校高学年で始まった弟の反抗期は、とても強く、そして長く続きました。

弟は自分から手を出すことはありませんでしたが、弟の反抗的な態度に対し、母が強く干渉してしまうため、怒鳴り声や、物音の絶えない日々でした。私は、そんな環境の中で反抗期というものが全く現れず、基本的に母の味方をし、一緒になって弟を責めていました。父はというと、仕事で忙しく、また家庭内の出来事に深く関わろうとするタイプではありませんでした。

もしかしたら、そんな家庭環境が、思春期でどうしようもなく反抗してしまう弟をさらに苦しめていたのかもしれません。

そんな弟の反抗期は、高校を卒業しても収まりませんでした。

家に寄り付かなくなり、自分の体に傷を付けたり、人様に迷惑を掛けることもありました。大事にはならなかったものの、警察にお世話になることもあり、この先どうなってしまうのかという、漠然とした不安を抱えて、家族皆が疲弊していきました。

さらに輪をかけて、中学時代に一緒に暮らし始めた祖母(母の実母)と母の関係が悪化。祖母は、歳もあってか嘘を付くことも多く、自分の娘である母に向ける言葉とは到底思えないような言葉を吐くこともあり、そのことでも家庭内は常にピリピリしていました。

母はますますヒステリックになって、夜な夜な家を飛び出したり、必要ではないものを買ったりすることが増えていきました。父も、日々繰り返される怒号や解決に至ることのない話し合いに、「どうしたらいいかわからない」と音を上げ、家族の関わり合いに対しますます消極的になっていきました。

すっかり家族関係は冷え込み、離婚の話もちらつくようになりました。

その頃、娘である私は、どうにか家族が離れ離れになることは避けなければと思っていました。今思えば、子供の私たちも大学生で、それなりの年齢ではあったし、離婚や別居も一つの解決策として選んで良かったのかもしれません。ただ、その頃の私はそうは思えず、離婚という言葉が出る度にショックを受け、無理矢理にでも仲直りをさせようとしていました。「どうして私じゃお母さんたちのかすがいにはなれないの」と、必死に抵抗していました。

こうして、家族それぞれの心と体が限界に近づいていきました。

先に限界を迎えたのは、母でした。

心が不安定なだけでなく、動悸や多汗、忙しなく動いていたと思えば次の瞬間には体に力が入らなくなり、玄関の痛そうな床の上でも倒れこむ、そんな異変が現れました。